Scrapbook! by 愛書家日誌

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中原中也 ー 詩人としてしか生きられなかった人

中原中也は1907年の4月29日に山口県に生まれた詩人です。30年という短い人生の中で350篇以上の詩を残しました。詩集「山羊の歌」、「在りし日の歌」の他、ランボオ詩集の翻訳なども行っています。詩の魅力とともに、ただ詩人として生きたその人生もファンを魅了しています。中也に関するトリビアをまとめてみました。


目次:

旧姓は「柏村」でした

「中也」という名は、父の上官であった中村緑野(なかむらろくや)が名付け親となり、自身の名前から「中」と「や」をとって名付けました。 当時、父の謙助は柏村だったので、中也は「柏村中也」として誕生しました。1915年に謙助が妻フクの実家である中原家の養子となったために、中也は「中原中也」になりました。



中也3歳、父母と

長谷川泰子、小林秀雄との三角関係

1923年4月、京都の立命館中学校3年に編入した中也は一人暮らしを始め、しばらくして知り合った3歳年上の大部屋女優・長谷川泰子と知り合い同棲します。 1925年には二人で上京し、中也は富永太郎の紹介で小林秀雄と知り合いました。二人は文学仲間として深く交流しますが、11月に泰子は中也を捨て小林のもとに走りました。

「とも角も、私は口惜しかつた!」と書いた中也ですが、自分の家を出て行く泰子の引っ越しを手伝ったり、小林とは別の男性の間に生まれた泰子の子どもの名付け親になったりしています。

中也のスタイル

誰も語らなかった中原中也によると中也の身長は四尺六寸五分、約141cmでした。同人誌『白痴群』時代(1929年頃)の中也はその小さな体を黒いルパシカに包み、冬には黒い吊り鐘マントを着ました。そして頭にはお釜帽子と呼ばれた黒いソフト帽をかぶっていました。ソフト帽には独自の改良が施されていたようです。

NHKの面接に落ちる

実家からの豊富な仕送りで生涯働いたことのなかった中也ですが、1936年、妻の遠縁のつてで当時はラジオを放送しいてた日本放送協会(現NHK)の面接を一度だけ受けています。履歴書の備考欄には「詩生活」としか書かれておらず、これでは面接にならないという面接官に対し、「それ以外の履歴が私にとって何か意味があるのですか?」と答えました。結果は当然不採用でした。

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中也29才、面接のために撮影された写真

中也と文也

1934年に生まれた長男・文也(ふみや)を中也は大変可愛がります。「また来ん春……」には文也を動物園に連れて行った様子が描かれています。1936年に文也はわずか2歳で亡くなり、中也は精神の均衡を崩してしまいました。詩集「在りし日の歌」は文也の霊に捧げられています。

第一回中原中也賞は立原道造

長谷川泰子の発案により、中也の死の翌年、中原中也賞が設けられます。泰子の夫・中垣竹之助の出資によるものでしたが経済状況の悪化により三回で終了しました(現在の中原中也賞とは別のものになります)。

中原中也をテーマにした漫画作品

中原中也記念館

中原中也記念館」は山口県山口市にあります。中也の草稿・日記・書簡等の資料が公開されています。

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